町とコーヒー(1)

【01_ PH通り店】

こんにちは。 COFFEEBOY代表の河内山です。 現在COFFEEBOYは、山口県内に8店のカフェを運営しています。 それぞれ個性的で景観に溶け込みながら、それでいてどこか街角を刺激する存在であってほしい。 いつもそんな思いで出店しますが、時代やコーヒーの役割が変化する中、初めの出店の思いと違ってしまう(必ずしも悪い意味ではなく)こともよくあります。 今回のシリーズは、各店を出店した時の思いとその後の移り変わりについてお話ししたいと思います。 25ほど前に開店したCOFFEEBOY1号店です。 時代は喫茶店が斜陽になって既に久しくなった頃、街には低い椅子とテーブルがホールに並ぶ『カフェ』なるものが、山口県でも現れるようになりました。 そんな頃、ある方に今のお店の左半分のスペースが空きになったと知らされ、家業の延長でもある自家焙煎豆販売店として開店したのが今のPH通り店です。

カフェとコーヒーショップの融合

実は私の出店の目的は、喫茶店の衰退でシンプルにコーヒーの飲み場を失った方へその場を提供すること。 カフェというよりも、美味しいコーヒーとその豆を持ち帰って淹れる事のできる自家焙煎豆の販売でした。 言うなら日本中どこにでもあるコーヒー樽をインテリアにしたような世界のコーヒー豆販売のお店です。 場所を提供してくれたのも、気軽にコーヒーが飲めるスペースを自身が欲していた大家さんでした。 一方、COFFEEBOYのスペースデザインを一貫して依頼しているSOFAの白井さんが、街の中心にカフェが必要だと感じ、カフェ風のインテリアにこだわっていたのも事実です。 ずいぶん予算をオーバーしたソファが備え付けられたのもそのためです。 そうすると同じように徳山にもカフェを!と考えていた方が少しづつ自然に集まってきました。 ただ一般のカフェと大きく違っていたのは、食事を用意していなかったことです。 しかしコーヒーショップのこのスタイルは最終的に、お店に喫茶店的サービスを求めてくるお客様と、カフェ的サービスを求めてくるお客様が次第に融合していくことでうまくお店の両輪となりました。 私がお店に求めていたモノを超えた化学反応が起こったと言えるかもしれません。

ずっとPHカフェと呼ばれた1号店

元々PH通りの名前は、一つ隔てた御幸通りと駅前の平和通りから命名された通りでした。 遡ること80年、先の大戦で多くの方が命を落とされたことに所以しています。 coffeeboyは、PH通りの駅に近い入り口にあるため、時の経過とともに、PH通りのシンボルのような存在になって行きました。 当時、デザイナーの白井さんが配色したグリーンのオーニングとオレンジのドアは、近くで出店されるお店(コーヒーとは無縁の業種)のイメージカラーに使われたりしました。 また、コーヒーとは縁の無さそうな10代の女性の来店も多くありました。カフェの空気を楽しみにきたのでしょう。 当時コーヒーツールとして置いていたカリタの赤い軽量カップがよく売れたモノです。 コーヒーと雑貨やファッションとの関係など、コーヒーのさまざまなポテンシャルに気づいのもその頃ですね。

PH店を振り返って

出店からおよそ25年、時代や文化、通りの風俗も大きく変わったと思います。 COFFEEBOYも8店になり、お客さんの量も質も違ってきています。 当時コーヒーの中にあるべきだと思っていたストリート感やサブカル感はこの20年でずいぶん希薄になりました。 COFEEBOY全体としては、今もお客さんが増え続けています。 その中でもPH店の新しく常連になっていただける方は、コーヒーが本来持っている文化や影響をよく理解されている方が多いようです。 そして、この当時一緒にCOFFEEBOYを作り上げてきたスタッフたちが、新たに自分たちでストリート感のあるカフェや飲食店を立ち上げられている。 PH店のDNAが様々なシーンで生きつづけている。 先駆者冥利に尽きますね。


町とコーヒー

トピックス別

EVENT SPOTLIGHT

NO COFFEE. NO CREATION.

もっと知りたいコーヒーのこと

オリジナルブレンド紹介

コーヒーとの出会い

コーヒーデイズ:カフェの日常

コーヒーボーイファミリー

コーヒー屋に生まれて。正確には焙煎屋です、が。

今さら聞けないコーヒーのはなし

焼きごろ 飲みごろ ススメごろ

町とコーヒー

私のコーヒーカップ

メールマガジンアーカイブ

メールマガジン2025/JULY

メールマガジン2025/JUNE

メールマガジン2025/MAY

メールマガジンの新規登録または配信停止はこちらのフォームから。